久留米藩初代藩主 有馬 豊氏が藩州姫路より藍の種子を取り寄せました。
筑後川流域に藍栽培を始めました。
はじめは、椿葉(丸葉)または藍といっていましたが、阿波の国(徳島県)から上香という種子を取り寄せ、次いで少上香という種子を求めて栽培地域を拡張しました。藍の主たる産地は、浮羽、三井、朝倉郡地方で、八女、三潴郡地方に産した記録も残っています。
有馬 豊氏 肖像(篠山神社蔵)
藍は久留米藩にとって、代々、貴重な染料でした。
百姓一揆の際、久留米藩は触書を出して、紺を出す藍、赤を染める紅花は他国へ出すことを禁じました。
藍は、久留米絣よりも古い歴史を持ち、且つ、重要視されていた事実がうかがえます。
このように久留米藩の保護を受けた藍は、染色を専門とする紺屋が生まれてきたことも久留米藩主有馬氏の思索と地域性のしからしめたためです。
久留米絣が西南の役の内戦で一躍その販路を拡げたため、染料の不足を生じます。四国より阿波藍を取り入れてこの不足を補いましたが、この阿波藍の上質さは地藍を圧倒し、逐次地藍を駆逐し、阿波藍の生産された大半が、久留米へ流れ、地藍では殆ど久留米絣を作られないようになりました。
徳島の阿波藍は、久留米絣の評判と共に隆盛を極め、約5万haもの藍草の生産に至りました。
阿波藍と共に、久留米絣の全盛期が続きます。
戦後以降、地場筑後地区での藍栽培は途絶え、阿波藍にたよってきました。
化学染料の台頭により、阿波藍の産地でも藍栽培量が減少しつつありました。
平成時代、全てを手作業の阿波藍の藍草生産は、往時の1/3,000(16ha)にまで減少しています。
久留米で藍の生産を復活しました。
藍の生育を農薬不使用、化学肥料不使用、除草剤不使用の循環型農法で復活させました。